10.演奏家のあるべき基本、聴き手が期待するもの
プロの演奏家・アーティストには切磋琢磨して磨いてきた技、培ったセンスそして作曲家に対して最善の解釈、表現を担保できる矜持があるはず。そうであれば少なくともうわ面、表面的、没個性的な演奏、所謂水っぽい演奏などあり得ない。これは音楽に限らず芸術に限らず生活一般にも言えるかもしれない。何事も先ず個性的、濃過ぎても良いから、料理ではないが、しっかりした出汁が大事。味の良し悪し以前の話で、これが昨今大抵のアーティストに期待する第一条件である。上滑りな凡演が目に余る現状を憂えて申し上げている。戦前から戦後しばらくまで良くも悪くも個性的な濃厚な演奏が盛んで、アーティスト達は互いにライバルと技は勿論のこと個性を競い合った。それが何時しか皆均質でしかも平凡になってしまった。音大をはじめとする教育機関そしてコンクールの審査員諸氏の姿勢も問われかねない。兎にも角にも先ず個性あってしかりである。
11.ベルリンフィル、悔やまれる空白同然の30数年
名匠フルトヴェングラーの急逝とともにベルリンフィルの首席、総監督を継いだカラヤンはご存じの通り音楽界の「帝王」と言われ一世を風靡した。実に彼のルックスそして手指の動きにうっとりされたファンも多かろう。彼のお蔭でクラシック音楽の裾野が広がり、多くのファンを生み出した功績は誠に大きい。しかしそれは映画を観ていればこそ感動できるもので、映像がなければ何だったのかと気付くほど物足りない。要はそうしたルックスや微妙な手指の動きが音楽に宿っていない。彼の資質は良くても、その設計図が楽団員にしっかり伝わらなかった。しばらくの事なら未だしも30数年もの間通り一遍、魅力薄な演奏が目立ち誠に悔やまれる。それが世界随一のベルリンフィルだから尚更である。殊に残された録音のことを思うと、超一流オーケストラの実力を長きに亘り活かし切れなかった損失を思うと誠に悔しい。当時ベルリンフィルの首席に値する指揮者は、ベームはウィーンを向いていて無理としても、候補者がいない訳なかろう。クレンペラーとかマルケヴィッチ、ショルティ、クーベリック、異色ながらマルティノンであればベルリンフィルによる名演、名盤に幾多恵まれたであろう。今後ともオーケストラのトップ人事は実力本位に慎重、厳正、柔軟に願いたい。